ベンガル娘のお休み処

ねこバカMarukoとベンガル蘭ちゃんの暮らし 

がんになって半世紀を振り返った半生記

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半世紀。

 

長いですよね、半世紀って聞くと。

実はわたくし、先日の誕生日をもって、半世紀を超え生きてきたことになります。

 

半世紀の間、自分を取り巻く環境に合わせ、流され、選択にあまり迷うことがありませんでした。

 

幼少期に両親が離婚し、わたしは母に引き取られ、弟2人(双子)は父に引き取られました。父と弟たちのことはほとんど記憶がなく、今も生きているかどうかすら知りません。

もの心ついたころには母の実家で、祖母、伯父の家族、母と暮らしていました。そして、わたしの小学校入学と同時に母と祖母との3人暮らしが始まりました。

3人暮らしはいろいろありましたが… 

簡単に言うと、家事や育児に興味がなく、仕事も続かないダメ親父の役を母親が担い、年中、子どもに向かって親父の悪口を言っているヒステリーな母親の役を祖母が担っている感じでしょうか。

 

そんな中、わたしは小学2年生のころには、「将来の夢」という問いに「こうむいん」と書いていました。

周りの子の答えは、「アイドルかしゅ」「ケーキやさん」などだったと思います。

当時、伯母が地方公務員だったため、大人たちが「公務員は親方日の丸で倒産がない。」「女でも肩たたきがなく定年まで働ける。」と言っているのを聞いていたのです。

「こうむいん」にならなくちゃ。何をする人かは知らないけれど。

 

わたしは「女だからまともに働けない」とか「女世帯だから人並みの暮らしができないのは当たり前」と、何の努力もしないで「女」だから諦めている母親が嫌いでした。

ああはなりたくない、男に食わしてもらわなくても生きていける女になる、これがわたしの子どものころからの目標でした。なんの迷いもなく。

 

生活は困窮していました。遣り繰りをしている祖母がときどき「次にお金が入るまであと何日もあるのに、最後のお札になったから、使わないようにしよう。」と言っていました。つまり、貯蓄もないため、一家の全財産が1,000円(と小銭)しかないわけです。

母は、祖母の年金や母子家庭に給付される公的手当、伯父からの援助、わたしが高校生、大学生のときはわたしの奨学金、これらを当てにして、最低限ごはんが食べられればいいと思っているようでした。

高校受験のときには、もし公立に滑ったら、働いてくれたら助かる、とも言われました。

 

知ってる? わたし、成績トップクラスなんですけど。1回の受験で失敗したら、学歴中卒かぁ…って、シャレにならん。(当時の心の声)

 

今では、学歴よりも手に職を付ける方がいいな、とか、いい学校に入ることより、その後の姿勢の方が大事だよ、と思うのですが、当時は、男と対等にやり合う(働いて稼ぐ)ためには、少しは「箔を付ける」必要があると思っていました。わたしが男だったら、早く稼ぎたいし、家を出たいしで、もっと早く就職していたのではないかと思います。

 

無事、奨学金を受けながら公立高校へ進み、さらに、地元の国立大学に進むことができました。大学では奨学金を受けるほか、入学金と授業料が免除されました。アルバイトもしました。親には1円も出してもらっていません。入学に必要な服や鞄や靴は、親戚が買ってくれました。

「公務員」にならなくちゃ。

そう思って、学部も選びました。興味があるのは他の分野で、両方合格しましたが、公務員受験に有利と思われる方を選びました。少しは迷いましたが、公務員という目標は揺らぐことがなく、答えは自ずと出ました。

 

「夢」を見たことがないわたしは、現実的な「目標」である公務員になりました。

わたしは、自分の労働でお金を手にできることに歓喜しました。アルバイトでもお金を稼ぐことに喜びを感じていましたが、公務員になったことで、これからずっと安定的にお金が入る、もう底辺の暮らしをすることはない、とやっと這い上がってまともに空気が吸えた気分でした。

 

しかし、その後の生活は、必ずしも順風満帆ではありませんでした。

就職して間もなく、認知症が始まった祖母を1Kのアパートに引き取っていた時期があったり、20代後半からは、一人暮らしになった母に生活費を送金するようになり、払えなくなったクレジットカードの借金を肩代わりしたりしました。母が年金を貰える年齢になっても、母の施設代、医療費等を負担し続けました。母の年金額は、低所得により掛け金を免除されていた期間が長かったため、とても少なかったのです。

それでも、ボーナスを含む公務員の安定収入と、板に付いた貧乏性的な生活により、困窮することはありませんでした。

 

3年前に母が亡くなり、母を養うために何としても稼がなければならない、という義務感が無くなりました。良くも悪くも解放感が訪れ、と同時に、自分のことを振り返り、つまらない人生だったな、と思うようになりました。何事も、好きとか楽しいという理由で選択したことがないことに気付いたのです。お金が欲しい以外に夢もなく、常に義務感に動かされていました。

 

今年、50歳を前に乳がんが見つかりました。

昨年から遠方で単身赴任生活をしていたところでした。

そして、あっさり公務員を辞めました。

公務員を目標にしてきたこと、公務員になったことを後悔しているのではありません。辞めても困らないのは27年間公務員として働いたお陰ですし、公務員の夫とも出会えました。

でも、これからの人生は、家族(夫と愛猫)と一緒に暮らしながら、自分が好き、楽しいと思うことに使おうと決めました。その思いに迷いはありません。

まだ抗がん剤治療を続けているところですが、面白い人生だったな、と思えるように、やりたいことをやっていきたいと思います。